魚町遺跡第3地点1区・2区
所在地 :北九州市小倉北区魚町4丁目
調査時期:令和5年9月7日~9月29日、12月4日〜令和6年2月29日
調査面積:1,500㎡
調査の内容
本遺跡は小倉北区魚町4丁目に所在し、調査区は紫川の支流である神嶽川のすぐ東側にあり、付近の標高は約2mである。小倉城下の東曲輪に位置しており、『小倉藩士屋敷絵図』(幕末期)によると、調査区は「紺屋町一丁目」にある「郡屋鋪」「町屋鋪」に相当する場所と考えられる。
1区では、野面積みの石垣が長さ約24mにわたって確認された。これは西に面して南北方向に延びている。石垣の高さは北側で144㎝、南側で190㎝を測り、南から北に向かって低くなっている。この石垣は1区のすぐ西にある神嶽川の旧護岸だと考えられる。
2区の調査では、調査区の中央付近に南北方向に延びる石組溝(排水路)が確認された。この溝は『小倉藩士屋敷絵図』の中にも見ることができ、これを境に西は「郡屋鋪」、東は「町屋鋪」であったことが記されている。この溝は東西に向かい合う石垣を壁としており、高さは約140㎝である。溝幅は中央付近〜南側で約90㎝だが、北側では、東側の石垣が鈎状に広がるため、約2.5mを測る。なお、この東側の石垣は本来、直線的に伸びており、鈎状に屈曲する箇所から90㎝幅の部分は、後の貼り足しである。また、西側石垣の背後にも、もう1面の石垣が確認されていることから、以前は約4m幅であったと考えられる。
「町屋鋪」の範囲では石垣、石列、井戸、埋甕など多くの遺構が確認された。ここでは石列の配置から、北、中央、南の3つの区画に分けることができる。北部では10基の土坑が確認され、この土坑群は石組溝と平行して2列に並んでいる。土坑内部には陶器甕が残るものがあることから、本来は全てに甕が据えられていたと考えられる。このような状況は普通の民家とは考えにくいことから、商家であったと推測される。中央部では、自然石を積み上げた井戸とその周囲に敷石が配置され、敷石の縁に沿って石列が並んでいる。また、南部では、2.9m×5.9mのコ字状に並ぶ石列が確認され、土蔵の基礎だと考えられる。
「郡屋鋪」では石垣や石列、礎石、埋甕などが確認された。石垣は南に面して東西方向に延び、長さ17.5mにわたって検出された。高さ175㎝を測り、西側で1区の石垣と接続すると考えられる。町屋鋪の南東端部でも南面の石垣が確認されており、本来は石組溝を挟んで東西両方に延びていたと考えられる。また、北側ではL字状に並んだ石列を確認した。一部が調査区外に延びており、本来の長さは不明だが、東西5.2m×南北6.6mを測る。また、石列で囲われた範囲内には、礎石も検出しており、郡屋鋪の建物の一部だと考えられる。
1区 石垣全景(南西から)
2区 町屋鋪全景(南西から)
2区 郡屋鋪全景(西から)
主な遺構
近世 | 石垣、石組溝、石列、礎石、井戸、埋甕、土坑、ピットなど |
主な遺物
近世 |
16世紀〜幕末期・近代の陶磁器、土師器、瓦質土器、土師質土器、瓦、砥石、硯、銭貨、キセル、曲物、下駄、建築材など |
コンテナ | 1046箱 |